思い出

masaki amsei

2018年06月11日 18:52

こんにちは、スタッフMです。
塩尻でお店を始めたのは10年前のこどもの日、と聞いたのでもうそんなに経ったのかという驚きと一区切りのここで、私が田島から聞いたMASAKI AMSEIを作るに至るまでの話をまとめてみようと思います。


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2010年に松本に引っ越してきて8年弱
2008年にはじめに塩尻にお店を構えてから数えるともう10年経ちました。

塩尻の店をはじめたのは五月のこどもの日、手作りでリフォームしたばかりの店舗の軒先にはツバメがしきりに巣作りの見回りに来ていました。
AMSEI(アムセイ)の店名を決めた出来事に係った、小さい親戚の女の子はもう大学生、時の流れに改めて驚かされます。

私が当時勤めていた職場を離れて上京したのは23のころ
ジュエリー作りを学びたくて都心にアクセスがよさそうなところに居を置きました。

前職、工場に勤めていた時は製品が既定の寸法の間におさまっていれば多少の差異があってもどんどん出荷されていました。

製造業は一定の品質と時間と数量の勝負ですからそういうものなのですが、私はとことん時間をかけてこだわっても怒られないものづくりを仕事にしたかったのです。



ジュエリーといえば上野や御徒町、工房や専門工具を扱う会社・店舗などが集まるエリアです。

毎日バイトをしながらこちらに通い、工具のお店の人に質問したり専門書などを読んだり、材料や工具を揃えて自宅で机に向かいワックスや金属を削ったり、石留めを練習したり、ひたすら作る毎日を送りました。

はじめから独学でやりたいと決めていたわけではなく、学校も考えましたし弟子入りしたい職人さんもいました。
弟子入りを申し出たところ、「君はまだ若いんだから、こんな辛い大変な業界入ってきちゃだめだよ」とたしなめられ、残念ながら断られてしまいました。

単に弟子をとりたくなかったのかもしれませんが、たしかにその頃はバブル崩壊の数年後。
景気が冷え込んで宝飾品の需要はとても落ち込んでいました。
若者が夢を追って飛び込んでくるにはあまりにも先がみえない業界だったのです。
良い人でしたし私のことを思って止めてくれたんでしょう。

(バブル当時の職人さんたちの羽振りの良さはすごかったそうです)

「せめて中学を卒業したくらいの歳に来てくれたらねぇ」とも言われて技術の習得の道のりは厳しく、時間がかかることを改めて感じました。
しかしひっくり返っても若返ることなんてできません。
希望の年齢から8年歳をくっていますがこれからでもやるしかないのです。

学校ってどうなんですかねと尋ねてみると「学校に行く学費があるならそのお金で材料や工具を買ってひたすら作りなさい、そのほうがよっぽど身になる」と。
調べた学費は高額だったしバイトして学校行って一人暮らしして…は正直キツイと感じてもいたので職人さんの言葉を受け、書籍と専門職のみなさんの助言をいただいて、バイトしながらとにかく毎日ひたすら作るという手段で徐々に技術が身についていきました。

(つづく ?)

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